神様のいのちに浸る

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、、、その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(マタイ3:11)

「洗礼」という言葉は「浸して洗う、飛び込む、浸す」という意味があります。聖霊は、神の霊であり、ですからヨハネが言う「聖霊のバプテスマをお授けになります」とは、イエス様が神のいのちの中にあなたを浸す、という意味なのです。

もしあなたがキリストに生きるなら、あなたは、神が入り込んでくる経験をするでしょう。神様が、あなたの内に住まうのです ー それも完全に。水を注げばそれが浸透していくように、聖霊は、あなたのすべてのいのちのうちに入り込むのです。火が純化し破壊するように、聖霊も私達の中にあるくだらない物を焼き尽くしてくれるのです。「私たちの神は焼き尽くす火です。」ヘブライ人への手紙12:29

従者たちと共に立っているヨハネとイエス様を思い描いてみてください。ヨハネは水のバプテスマを授け、イエス様は聖霊のバプテスマを授けるのです。ヨハネは新しいいのちへの熱望を持つことを手助けしますが、イエス様はその新しいいのちを生きる力を与えてくださいます。ヨハネは聖霊を与える事はできず、イエス様だけができる事なのです。

下記は洗礼を望むある人の証です。

私はクリスチャンファミリーの中で育ち、子供のころから教会に通っていました。私が16歳の時、クリスチャンキャンプに参加する友達について行ってみました。そこで、講演者の方の話を聞くうちに、私の人生の多くの事が間違っていたことに気が付き始めたのです。私はそういう人生を変えたく、神様へ委ねる祈りを捧げました。それ以来、多くの事が変わりました。簡単な事ではありませんでしたが、私は神様が喜んで下さるような生き方をし、天国で神様と共にいられるために洗礼を受けたのです。

この人は、キリストではなく、ヨハネの洗礼が欲しいのです。彼は、ヨハネの周りに集まった人々と同じなのです。「クリスチャンファミリーで育ち」(宗教的背景)、「講演者の話を聞き」(飢え渇きの中でヨハネの話を聞き)、「変化が欲しく」、「神様が喜んで下さるような生き方をしたい」(ヨハネに洗礼をされた人々のように)。

今日の教会には、約束はしたけれどまだキリストの元に来ず、魂の中に神の命が入り込んでくるという経験の無い人々が沢山います。きっとヨハネはこう言うことでしょう。「キリストの元に行きなさい。その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」と。

(使徒の働き10章参照。)

(Colin Smith, LIFE KEYS, Unlocking the Bible)

そのように死んだ人は誰もいないのです!

イエスは大声で叫んで、言われた。父よ。わが霊を御手にゆだねます。

十字架の上で、イエスは私達の罪の犠牲になったのです。私達に平和をもたらした罰は主イエスの上にありました。主は地獄のすべてに耐え、父の愛は、彼の手の届かないところにありました。そのため彼は、暗闇の中でこう叫んだのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。しかし話はここでは終わりません。

イエスの最後の言葉は、疲れ切った溜息ではなく、叫びでした。彼は耐え抜き、そして勝利の中でこう言ったのです。「完了した・・・父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ヨハネ19:30、ルカ23:46)ここの重要性がわかりますか?苦しみはもう終わりなのです。代価は支払われたのです。御子が耐えてくださった無限の苦しみは、もう過ぎ去ったのです。今、父の光が又、彼の上に輝いているのです。

イエスが死に打ちのめされなかったという事に注目してください。死が彼に打ち勝つことはなかったのです。主は力尽きなかったのです。彼はこう言いました。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」(ヨハネ10:18)キリストのいのちは奪われたのではなく、自ら捧げたのです。

マルコは、イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と加えています。(マルコ15:39)この栄光がわかりますか?そのように死んだ人は誰もいないのです!

そして3日目に、イエスは死からよみがえったのです!そして数週間後の五旬節の日、ペテロは「今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」というメッセージを広げ始めました。(使徒2:36)

イエス様は救いをあなたにもたらすお方です。彼は死の谷から敵を排除し、天国へのドアを開いたのです。彼は私達の罪のために死の宣告を受け、悔いと信仰を持って彼の所にくる全ての人々に赦しを与えてくださったのです。彼をどこかへ押し出さないでください。彼の下に来て、あなたのために主が用意してくれたものを受け取るのです。信仰によって神の賜物を受け、自分のものにするのです。

(ヨハネ10章、11章参照)

(For further reading, see John 10 and 11)

(Colin Smith, LIFE KEYS, Unlocking the Bible)

猛犬

 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:13)

 キリストは私達の敵を抑えこむ事ができる故に、確実に私達を救い出すことが出来るのです。彼が主であるという事実は、彼が救い主であるという事なのです。そういう訳で聖書は、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」と書いてあるのです。

5歳の時、父が車の部品を手に入れるために、私をエディンバラの郊外にある車の廃品置き場に連れて行ってくれた事があります。そこは子供の創造力を刺激するには素晴らしい場所でした。

そのシステムはとてもシンプルでした。自分が必要な部品を外し、出口でその分を支払うだけです。でも、部品を取り、フェンスから外にそれを投げ、素知らぬ顔で出口を素通りし、外に投げ出したその部品を拾って帰っていくという人もいるのです。

そういう事があるため、オーナー達はフェンスの内側に立ち入り禁止部分を作り、3フィートほどの高さの柵を作りました。そしてその柵の中に、パトロールようとしてジャーマンシェパードを飼ったのです。そのフェンスに近づかない限り安全です。

ある日、父が必要な部品を取っている時、私はある1台のトラックを見つけそこによじ登りました。そこで私がトラックを運転している想像に浸っていたところ、突然あの犬が鎖を壊し、私に向かって走って来たのです。

あんなに恐怖に陥った事は一度もないと思います。子どもだった私は叫び、父がこちらに向かって走り出しました。しばしの格闘後、父はその犬を抑え込みました。父が犬を抑え込んだのは、その犬から私を救い出すためでした。もし犬を抑え込めなければ、その男の子を救う事はできません。

キリストは、敵を支配しているからこそ私達を救う事が出来るのです。神様の力は誘惑の力よりも偉大であるから、私達の罪から救い出して下さるのです。彼は死に勝利したから、死を通して私達を安全に導いてくださるのです。天での全ての権威が神にあるために、神は天国のドアを開けてくれるのです。

(ローマ人への手紙10章参照)

(Colin Smith, Life Keys, Unlocking the Bible)

 

ただのもう一人の預言者ではない

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)

人々は常に、イエスを預言者(マタイ16:14を参照)の一人として考えてきました。しかし、「わたしは成就するために来た」とはっきり述べました。預言者は、話すたびに、神の約束を発表し、その項目はより長いものとなっていきました。

もしイエスが、もう一人の預言者であったならば、さらに神がいつの日か行う事を述べたでしょう、しかしイエスは、それらのことのためにはやって来られませんでした。イエスは、神の教えの項目をより長くするために来たのではなく、それが成就するためにやって来たのです。

イエスを、他の預言者や、宗教家と一緒にはできません。イエスを理解したいと思ったら、旧約聖書に出てくる預言者や、これまで生きてたきた宗教家と一緒にしてはいけません。全く違うこととして理解する必要があります。

私の友人は、宗教的なセミナーに出席し、ユダヤ教はモーセで終わり、キリスト教はイエスとともに終わり、イスラム教はモハメドで終わったと聞きました。多くの人々は、イエスは、長い宗教の歴史にある一人の人物に過ぎないと見ています。現代は、アブラハム、モーセ、ダビデ、イエス、パウロは、同じ壁にかけられる偉大な宗教家に過ぎないと見ています。

キリスト教反対派の一部は、キリスト教は、2000年前に住んだイエスによって発明されたものであると考えています。しかし、聖書の物語は、時の最初に戻ります。キリスト教は、神が言ったことが成就されることです。それて、イエスキリストを通して、神の約束が成就されることを教えています。

預言者達は、神のすべての国々の人々が祝福されることを約束しています。神の国には、終わりはなく、人々に新しい心が与えられるのです。しかし、イエス・キリストが注目されるべきことは、すべて、彼を通して、それらのことが成就されるということです。あなたはイエスの肖像画が、すべて彼自身の壁に属する理由を確認し始めていますか?

(マタイの福音書16章参照)

(Colin Smith, Life Keys, Unlocking the Bible)

ノーと言える能力の育成

ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。ダニエル1:8

王のテーブルを控えるために、ダニエルが取った重要な決意は、ノーと言う能力を育てることでした。これは効果的なクリスチャン生活にとって非常に重要です。「神の恵みは、不経験なことに対して「ノー」と言うことを教えています。」(テトス2:11,12節)

もし、あなたが小さい問題にノーと言う能力を育てあげられなかったらば、より大きなテストと誘惑が、あなたを襲ったときノーと言うことはできません。そのことから、いくらかの快楽や、その機会に対抗しようとする取り組みは重要です。誘惑に耐える能力を育てることは大切です。

ダニエルは、王のテーブルから食べることは、自由でした。しかし、彼は、王の食卓で食べる習慣が、主への忠誠を覆す可能性、もしくは、主の中にあって、彼からの力を失うことになると感じました。そのことから、ダニエルは、自制心を強めるために、主にある自由を用いました。彼は、自分の人生の良いものが、彼の心の中で消費されることを許しませんでした。

これらのことは、今日、私たちの生活の中で、実践すべき意義あるものです。いくらかのクリスチャンは、人生の選択がやってくるとき、それが間違っているのか、正しいのかという、二者選択のことだけに気を捕われています。それが、不道徳、違法、もしくは、わたしたちを怠けさせるものでなければ、私たちは、確信をもってそれを自由に楽しもうとします。しかし、他にも自問することがあります。それは、その選択が、賢いかということです?

どんな映画を見るべきだろうか?どのくらいの限度額の住宅ローンにするべきか?どんなパーティーに行くべきか?どんな仲間を持つべきか?何に、あなたのお金を費やすべきか?ダニエルのたとえは、私たちが何かを選択し決定するうえでの賢さを、私たちに思い起こさせてくれます。私たちは、世界の価値観やライフスタイルに吸い込まれる可能性があることから、長期的な視野で、物事を考慮する必要があるのです。

(テトス2章参照)

(Colin Smith, Life Keys, Unlocking the Bible)

預言的な想像

13: 2「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。3神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。(エゼキエル13:2−3)

神は預言者であると主張した偽預言者達に、エゼキエルを通して語ったが、彼らは、神のことばを、自分達の言葉に置き換えてしまいました。預言者の役割は神の臨在に立って、神のことばを聞き、人々に神のことばを語る働きでしたが。これらの指導者たちは、世を見て、人々が聞きたがったていることを見つけ出し、彼らが語りたいメッセージを作りました。

エゼキエルの時代では、預言者たちは、人々が平和のメッセージを聞きたかったことを知っていたので、彼らは、それらの人々が望むものを与えました。彼らは、神が、平和はないと言っているのに、「平和」を語ることによって、神の人々を、迷いの道へ導きました。(エゼキエル13:10を参照)神が語っていることを、彼らは心深く受け止めませんでした。彼らの働きは、真実によるものではなく、需要によって動かされました。

今日の教会の健康は、神の言葉の預言の教いのうえに依存しています。神の啓示は、イエス·キリストを通して完了しているので、これらは、神から直接受け取った新しい真理を明らかにしている訳ではありません。すべての教会は、神の言葉の力強さを必要としています。そのことによって、神の真理が、神の人々の間で知られることになるからです。

預言者の指導者は、また、クリスチャンホームの中で、たいへん重要です。それは、私たちの子供たちに、神の言葉の預言の教えを伝えることが大切だからです。それは、神の計画です。これを行うことに、父、母のどちらが適していると感じていますか?

しかし、五旬節の日に、ペテロは、神のすべての人々が預言することについて話しました。(使徒の働き2:17)それは、私たちのすべてが説教者であるという意味ではありませんが、神は、人々の心を突き刺す神の真実を、いつでも彼の人々を使って、届けることができます。わたしの友は、こうよく言いました。「すべてのクリスチャンは、パイロットライトのようです。ー 常に点灯して、彼、もしくは、彼女の中に運ばれ、それは、大きく点灯する炎となる可能性があります。」

(エゼキエル書13章を章参照)

(Unlocking the Bible, Life Keys, by Colin Smith)

つながりを忘れるな

21私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。22私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。23それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。…(哀歌 3:21−23)

神が祝福することを選択した人々が散在し、神の名が示された場所が破壊された場合、どのような希望がそこにはあるのでしょうか?、神の約束はどのように満たされ、世界への祝福は、どのようにもたらされるのでしょうか?もし最後の王の子がすべて殺された場合、ダビデの王家には、どのような未来が待ち受けているのでしょうか?

答えはエホヤキンにあります。彼は、18才で王となり、その治世は、わずか3ヶ月で終えることになりました。そして、彼は降伏しバビロンに流刑されます。エレミヤはエホヤキンが最終的に捕われの身から、解放されたことを教えていますー彼は、囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。(エレミヤ52:33)

エホヤキンの生活は維持され、王の家系は途切れませんでした。マタイが、ダビデ王の家系を通して、イエス・キリストが生まれることになる、彼の家系図を示したとき、エホヤキンの名は、名誉あるところに置かれています。(マタイ1:11-12)その王の治世は、3ヶ月で終わり、彼は、何もすることはありませんでしたが、敵に降伏し、その家系のつながりは、キリストへ繋がることになりました。

エレミヤが、彼の本哀歌を書いて、エルサレムの荒廃した街を歩いていたとき、エレミヤは、このことを知りませんでした。もし、エレミヤに、私たちがこう尋ねたとしたらどうでしょう?「ゼデキヤ王のすべての息子が死んで、ダビデの家系から、どのようにして、約束の救い主は起こされたのでしょうか?」私は、このことに関して、エレミヤは、皆目見当もつかなかったと思います。

しかし、エレミヤは、神が彼の約束に忠実であることを信じて、神に信頼し、その忠実さに固い希望を持ちました。神が関わってきた、何世紀にも渡る彼の人々を見てください。そして、最も暗い時代であっても、神は、常に忠実です。神の驚くべき力によって、どれ一つ忘れることなく、自身の約束を成就されます。それは、あなたも神の不変の忠実さに、あなたの希望と信頼を置けることを意味します。

(マタイの福音書1章参照)

(Colin Smith, Life Keys, Unlocking the Bible)